nikkeiBP 遙洋子 『コミュニケーションの決め手』を読んで

コミュニケーションがとれていない人間が、したり顔でコミュニケーションを語る。
これほど面白いものはない。

遙氏の書かれるコラムが全てダメというつもりはない。
しかし、「男女」という視点が入っているコラムのなんと質の悪いことか。

男だとか女だとか一番こだわっているのは遙氏にしか思えない。
どこの世界にも原理主義者はいるが、遙氏もその一人と思う。
良いことだろうが悪いことだろうが、それが一瞬にして変わるということはあり得ない。
技術的な革新、重大な事件があればそうなることもある。
ただ、それも精神的な準備が整っていてこそのもの。

例えば何かが小さくできる技術が生まれたとする。
潜在的にでも、小さいものを望まれていれば、それが商品化されたときに一気に普及するだろう。
(当然経済問題はあるので、その価格も重要なポイントだが)
しかし誰も望んでいなかったり、その必要も特になければ小さくするというだけでは普及しない。

重大な事件は、関係する人の意識に一気に働きかける。
本来なら緩やかに変化していき、伝播していくものが、一気にそうなる。
そのために変化の速度が上がるのだ。

今回のコラムについて言えば、

「男だけで」と言った男性の妻がその空気に辟易し「ええかげん学習せい」と小声で夫を叱った。“伝統”とやらに触れる度に必ず遭遇する私と男たちの喧嘩にその男の妻が悲鳴をあげたのだ。

これは、別に男だけを非難しているわけではないだろう。
男性の妻とすれば、男性のほうが近いので言えるというだけだろうし、むしろ遙氏には何を言っても無駄だから相手にするなよということかもしれない。
つまり、男性の妻にとってみれば、どっちもどっちでどうでもいいことなのだ。
一番の問題は、その場が収まることであって、遙氏を応援したいわけでもない。
単に、その場をおさめるためには、自分の夫に対して働きかけたほうが楽だからというだけだ。

実際に遙氏も以下のように書いている。

そりゃ妻にしてみればまる1日がかりで来客向けに準備した料理を毎度の喧嘩で台無しにされることを思えば、和やかな歓談と会食を望むのも理解できる。

しかし、直後に以下のように書いている。

予想外の加勢を得た私はこれまでになく勢いづき声を荒げ、ついでに声高に言ってみた。

はっきり言えば加勢ではない。
まぁ遙氏が政治力(といえるほどのものとは思わないが)が上だった、機を見るに敏感だったということだろうが。

「参加するのなら私だけじゃない。そっちの女性全員、参加すべきだ」
すると、意外にも女たちがぞろぞろやってくるではないか。多勢に無勢で男たちも押し黙るしかなかった。「革命か」と思うほど私は驚いた。
 
まぁ流れとしてはこうなるだろう。
ここで女性がそっぽを向いて参加しなければ、またすぐに場が荒れるのは目に見えている。

逆に女性陣が男性にではなく遙氏に意見したところで、女の敵は女 で書いているように被害妄想的な発想だったり、自分が革新的で他はみな保守的なダメなやつだという発想でしか受け取らない。

つまり、この場にいる女性にしてみれば、遙氏は手に負えない子供のようなものなので、関わらずに好きにさせたほうが楽だし楽しいということなんだろう。

この“伝統”の改革は急にはやってこなかった。絶対譲らない私と、同じく、これまでのやり方を死守しようとする側との戦いは、その終わらなさへの疲弊によって改革せざるを得なくなった。

まぁいつの時代も声の大きな頑固で周りを顧みない者の意見が通りやすいということなんだろう。

私が格闘したのは実は“伝統”ではない。1つの発言によって気分を害する人間がいる、と声を上げたまでだ。

自分の発言で周りの女性が気分を害しているということには気づけないのだろうか?

事の本質は、そのメッセージを受容するか拒絶するかの、実はコミュニケーションの問題だと(私は)思っている。“伝統”はあくまで拒絶の大義名分であって、コミュニケーションを拒絶する人間と、私は格闘していたのだ。

コミュニケーションをとるかとらないかは各人の判断であり、必ずとらなければならないというものでもないだろう。
むしろ、コミュニケーションをとりたいと思えない人間なのではないか?という視点はないのだろうか。
いつもいつも同じことの繰り返しで、コミュニケーションをとるために努力しているわけでもない。
それが結局、

その終わらなさへの疲弊によって改革せざるを得なくなった。

になっているが、遙氏の望む結果になったのは、遙氏が手が付けられない存在だというだけだろう。
別に遙氏の主義主張が受け入れられたわけでもない。

あえて互いに向き合わずに済ませるのも1つの関係性だろう。だが私は、向き合う必要のない人間と付き合うこと自体が理解できない。

つまり、遙氏が向き合う必要のない人間だと判断されているだけでなのではないか?
自分は向き合う必要が絶対にあるそれだけの人間であるとでも思いこんでいるのだろうか?
(まぁ主張からはそういうことなんだろうが)


自分の夫が今どういう心境で何に挑んでいるのか。その夫の「いらん」、つまり「今それどころじゃない。大事な瞬間だから邪魔しないでくれ」というメッセージが一言も通じないまま、それでも関係性は崩壊することもなく成立していた。

という部分がある。

これは結局のところ、その場単発のことだから関係性が崩れないだけだろう。
その場で夫がムカっとしても、本題のほうにもどり、集中し、時間がたつ。
そのことについて話せるのはその場も終わり、片付けや帰宅してからになる。
時間が経っているので、もう既に怒りも薄れているし、どうでもよくなる。
これが日常生活で常に継続して行われていれば、普通に関係は壊れるだろう。

コミュニケーションには一部だけでも拒絶はあるものだ。
常に拒絶しているのであれば、そこに関係は生まれない。
しかし、時にはなんらかの理由で拒絶することもある。
それでも拒絶されたくないときには、同じ方法であたるのではなく、どうすれば拒絶されないかを考え、実践する。
そうやってコミュニケーションというのはとっていくものだろう。

単にいつも同じ調子で、同じ主張を繰り返しているのは、気勢を上げているだけでコミュニケーションをとっている、とろうとしているとは言えない。

自分には関係ないところでは、正論ともいえる分析をできているのだから、それを我が身に当てはめてほしいものだと痛切に願う

カテゴリ:

関連する記事

この記事に関連する記事は、0 件です。

トラックバック

このブログ記事に対するトラックバックURL
http://fakelife.info/mt/system/mt-tb.cgi/40

» 「コミュニケーションの決め手」を読んで。(よもやま話、気の向くままに)~のトラックバック

遥洋子の「男の勘違い、女のすれ違い」より 「コミュニケーションの決め手」を読んで。 NBonlineより http://business.nikkeibp... 続きを読む

コメントする


画像の中に見える文字を入力してください。